象徴としてのヴィトンの財布

 男子高校生からオバサンまで、ネコも杓子もヴィトンの財布を持っている。異常ともいえる圧倒的な普及率を鑑みると、自分で選んでいるのではなく、選ばされているだけなのでは?と思えてくる。しかし、私がブログを始めたのも身近な友人が始めたのに影響されたから。これも私がブログの高い普及率に乗じたようなもの。
 各メディアから排出され続ける情報量は、人一人の一生ではフォロー不可能な量に達していて、おおよそ人間が考え付くであろう思考と思想のほとんど全てが情報化されているのではないか。そしてその圧倒的な情報量の前では、まったくのオリジナルな個の選択は存在しないのではないか。なんて思えてくる始末。
 しかし、人々の選択を扇動している支配者の存在は感じません。(局地的に操作された情報は勿論あるでしょうが)
 イワシの群れのように誰がリーダーでもなく、一匹一匹が群れ全体に、群れ全体が一匹一匹に影響を与え、不思議と統制の取れた全体像を生む。個は全に、全は個に影響を与え続ける昨今では、もはや個と全の境界線がぼやけてきているのではないか?そう考えるとヴィトンの財布を持っている人は、自身で選んでいるのではなく、選ばされた訳でもなく、「全」の意志のよって選んでいる可能性に突き当たります。まぁ、可能性というよりは思考実験の産物のようなものですが。
 ヴィトンの財布を持っている人を目にする機会があまりにも多く、それについて色々と考えていたらこんな訳が分らない話になってしまいました。取り留めがなく、明確な結論もない文章を最後まで読んでくれた物好きな方、ありがとうございます。
ではまた、おやすみなさいzzZ。